ジャンクフードを断ち切る方法

2 ‭‭テモテ‬ ‭4:3-5‬ ‭JCB

なぜなら、人々が真理のことばは耳ざわりだと敬遠し、自分につごうのよい話(*英語直訳: “霊的なジャンクフード”)をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。 彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、まちがった教えにしっぽを振ってついて行くのです。 ですから、危機感をいだき、絶えず目を覚まして警戒していなさい。 主のために受ける苦しみを、恐れてはいけません。 他の人たちをキリスト様へ導きなさい。 なすべきことを、一つ残らず成し遂げなさい。

‭‭

この聖書箇所でいう「霊的なジャンクフード」 は、今日においても人々を惑わしています。例えば、世界的に流行っている主張の中でいうと、 “Brokenness” = 「自分は壊れている」という言葉があります。人々は誇りを持ってオープンに「自分は壊れている」と自身の傷ついた経験や状態について話しています。しかし聖書には、私たちが「壊れている」と表現されている箇所はほとんどありません。実際に「壊れた/砕かれた」と表現されているのは、唯一イエスだけなのです。イエスは私たちの罪・過ちのために砕かれました。

一方、聖書の中で私たちについての説明によく使われるのは「弱い」という言葉です。これは、知っておくべき重要なポイントです。なぜなら、弱いものというのは鍛えることによって強められるからです。しかし、「壊れている」ものは、イエスの変化をもたらす奇跡的な力によってのみ、正しい姿に戻されることができるのです。

私がこの聖書箇所に励まされる理由は、この聖書箇所が私たちを真理へと前進させてくれるからです。聖書を定期的にじっくり読むことで、神様のことばにより近づくのです。私は、日々の霊的な食事をポッドキャストや流行りのスピーカーからとりたいとは思いません。

 

では、どのように「霊的なジャンクフード」をもたらすものに対して違いを生み出せるのか?

この聖書箇所にハッキリと示されています。

 

1.自分のやっていることに気を配る

私たちは、ソーシャルメディア時代に生きています。他の人がどこで何をやっているのか、その人たちの見た目はどんなものかばかりに気を取られてしまい、「自分」に目を向けることを忘れてしまいます。しかし、たとえ「自分」に目を向けたとしても、他の人たちと自分を比較し、「自分」を好きになれないこともあります。しかし、他の人たちの人生はいつもソーシャルメディアで見るような姿であるとは限りません。なぜなら彼らは、楽しい瞬間だけを投稿していたり、同情を求めて辛いことしかシェアしたりしていないのかもしれないからです。自分がやっていることに向き合うのは素晴らしいことですが、少し怖いと感じるかもしれません。

では、「自分に目を向ける」または「自分がやっていることに集中する」とはどういう意味なのでしょうか? それは、自分のあるべき姿について思いを巡らせ、神様が自分に用意してくれているものをクリアに理解する」ことです。つまり「長期的にも短期的にも、全体像に集中すること」を意味します。さらに「自分の人生について深く考え、将来について考えることが出来る」ことを意味します。神様は、夢を持つように励ましてくれているのです。しかし、大きな夢には、ある程度の犠牲と自制された生活習慣が必要とされます

具体的には、どのような生活習慣なのでしょうか?それは、自分が良い模範を示せる生活習慣です。個人的には、十分な睡眠をとり(夜遅くまで、ゲーム、Netflix、ポッドキャスト、ソーシャルメディアをやらないように気を付ける)、素晴らしい1日の始まりを迎えるために良い目覚めをすることです。

 

2.良い時期はもちろん、辛い時期も受け入れる

「問題や苦労が消え去る」というメッセージや教えは、現実の人生に向き合うための準備にはなりません。時として、辛い時期を避けることは出来ないのです。私たちが何かをしたからその困難を引き寄せたということではありません。

しかし、自分がしてしまった間違った選択のせいで、辛い時期を通ることがあります。私たちは、間違った選択を受け入れる代わりに、間違った選択をしないように戦略を持ち、そのような選択を今後しないようにしなければなりません。

 

3.良い知らせを伝え続ける!

ライフハウスのミッションは、失われた人々が救われ、傷つき、弱っている人々がイエスから力を得る手助けをすることです。人々の人生が変えられる瞬間に立ち会える程の喜びはありません!ぜひ、良い知らせを運ぶ人になってください!良い知らせはあなたから始まるのです!

 

4.神様が与えてくれたことを全力でやる

神様と人に仕えていきましょう!

賢く、そして全力で取り組んでいきましょう!

 

最後になりますが、私が優先的にしたいことは、人々に気休めの言葉をかけることではなく、彼らが人生を変える力を持つイエスに目を向けることができるように導くことです。